ものづくりの見落とし。

ここ数年デザインをしていて思うことがあります。
「ものづくりの見落とし」についてです。
私は工業デザインをしています。工業製品(主に大量生産品、時々中小量生産品)をデザインさせていただいていますが、時々障壁にぶつかります。それが慣例です。たとえば慣例的にそうなっているからそうしたデザイン(変化)は施せない。ということだったりします。
ではその慣例がはじまった起源のもの(オリジナルモデル)は、どの程度熟考されたものだったのでしょうか。もし物を出せばすぐに売れる時代にその最初のモデルが作られたのであれば、熟考を重ねられていなかったかも知れません。そしてそれがヒットした場合、より早い速度でオリジナルモデルを下に敷き、差別化という名の下に少しずつ変化を加えてものが繁殖していったのが今のマーケットを築いたとしたら、そこにあるのは根本的な「見落とし」かも知れません。
もし見落とされたことに世の中を変える要素や、環境への負荷が減る要素や、これまですごく力が必要だったことが簡単に行える可能性を含んだ要素があったのであれば、これは今からでも取り組むべきことだと思います。
「これはこういうものだから」という言葉に疑いの目を持ち、時間をかけて正しくデザイナー自身が検証をし、実験やトライの結果、ソリューションを持った新しい構造や記号を生み出したとき、世界はまた良い方向に向いてくれるかも知れない。私はデザインの仕事の醍醐味はこういうことだと考えています。ずっとやっていることを理解し、それを問いながらも続けることが伝統であり、その思考がなされなくなり惰性で行われているとそれは慣例となり、見落としがスルーされてしまう状況になります。
そうした視点から視れば慣例とは伝統と違い案外怠惰なものだと思います。一方デザインや開発は決して怠惰であってはなりません。
つまり「これはこういうものだとされていますが、本当でしょうか」と勇気を持ってそこに目を向けることが未来のデザインになるかも知れません。当たり前を疑わなければ、もともとの当たり前の良さを感じることはできないですし、決まったフォーマットの中から大きな変化は生まれないと思います。フォーマットの外側を探検することは、非の打ちどころのない優れたアイデアを出すことへの近道だと思います。
古いUSB端子は輪郭が上下シンメトリーにも関わらず、基盤が接する所は上下がシンメトリーになっていません。つまり輪郭としてはどちらの向きでも差せるのですが、実際には差せないためユーザーは困惑したり、手間取ったりします。その問題を地球規模で考えた場合、何千万人の人の大事な時間をこの問題は奪ってしまったのでしょう。これは大きな見落としです。最近になって改善されてきていますが、最初のデザイン(エンジニアリング)をした時、また発明段階でデザインによる解決がなされていない場合、時代の中で大きな時間の喪失が起こってしまいます。
こうした「見落とし」は割と色んな所に存在します。そうして見落とすことで、時間を奪い、意識を奪い、エラーを誘います。では見落とさない為にはいったいどうすればいいのでしょうか。
答えは簡単です。開発者自ら失敗することです。失敗は見落とさないための検証行為なのです。時間の許す限りリリース前に、またリリース後に致命的にならない範囲で失敗から学び、最後には見落としのない究極の姿を作る必要があります。
現代日本では開発期間はどんどん短くなり、また保守的な人種や文化から「失敗への恐れ=新しい挑戦が難しい」世の中になりつつあります。デザインは多くの失敗から一本の回答を導き出す行為だとも言えるはずですが、デザインの世界ですら失敗が許されない空気が漂い始めています。
一方中国では新しいものがリリースされればそれを改良し、2番3番の後発がメインになったりもします。失敗を成功にするという寛容さが生んでいるすさまじい新陳代謝と共に見落としはどんどん減り、最も人にフィットしたサービスやデザインが生まれており独自の生活圏を築こうとしているように思います。
何もないところからしかクリエイティブは発揮されないと思われがちです。また慣例に倣い時間を短縮して少ない変化で効率よく効果を得る場合にもクリエイティブは活かされるとも思われがちです。それらは全て間違いではないと思いますが、こうして見落としをしないようにするために、実はクリエイティブの本来の存在意義はあるのではないでしょうか。
見落としのない(隙のないもの)を創出したとき、企業にとっても変化せずとも安定的に利益を生み出す資産になります。新たに作らなくても持続するので利回りのいい経営資産とも言えます。新たに作らないといけない場合、それらは見落としがあるか、トレンド(マーケティング)などの外的要因が存在するかです。上段に書いた前半のクリエイティブの理由はそこに着地します。
広い目で見れば見落としを減らすことは人類の知恵の創造であり、理想はあまりに人間がスマートに活動を行えるほどに見落としがない姿であり、その文化というレベルまでデザインが昇華された時、逆にクリエイティブの手垢は消え、思考が暮らしに溶け込んでいくのです。
そうした眼差しが次の未来の道筋を見る眼差しとして相応しいと思います。