プロジェクトとパッション

プロジェクトとパッション(エンツォ・マーリ著/田代かおる訳)を読み終えました。
読み始めたのが昨年の8/23日。ちょうどメビック扇町で行われたクリエイティブフォーラムのあとくらいですが、かなり時間がかかってしまいました。理由はいくつかありますが、振り返ればこの本の文章の難しさが一番大きかったような気がします。正直一度わからなくなりすぎて2か月ほどドロップアウトしていました。翻訳をされた田代かおるさんのあとがきにも「読みにくいこともひとつの特徴であり、それがこの本の魅力」ということも書かれているくらいにこの本は難しく書かれていますが、これはマーリさんの文章がそういう物なのだと思いしっかりと時間をかけて読めば理解できる内容ではないかと思います。でもなかなか最後まで読める人はいないかも知れません。ぜひ挑戦してみてほしいです。
さて、去年の今頃から今日までプロジェッタツィオーネについてたくさんの本を読んできました。プロジェッタツィオーネとはイタリアにデザインという言葉が入ってくる前に使われていた言葉で、それは今のデザインとは違う意味合いで使われていたのではないかと議論されている言葉です。
これまで読んだプロジェッタツィオーネ関連書籍。
・アキッレカスティリオーニ 自由の探究としてのデザイン(多木陽介著) 1/19~1/30
・ファンタジア (ブルーノ・ムナーリ著//萱野有美訳) 1/30~2/9
・モノからモノが生まれる (ブルーノ・ムナーリ著/萱野有美訳) 2/9~2/23
・石造りのように柔軟な (ジャンフランコ・カヴァリア、アンドレア・ボッコ著/多木陽介訳) 2/23~3/10
・デザインとビジュアル・コミュニケーション (ブルーノ・ムナーリ著/萱野有美訳) 3/22~6/15
・芸術家とデザイナー (ブルーノ・ムナーリ著/萱野有美訳) 6/15~7/24
・芸術としてのデザイン (ブルーノ・ムナーリ著/萱野有美訳) 7/24~8/23
・プロジェクトとパッション(エンツォ・マーリ著/田代かおる訳) 8/23~1/12
途中イタリアでデザイン研修を受け、多木陽介さんやブルーノムナーリ協会会長シルヴァーナ・スペラーティさんや、ジャンフランコ・カヴァリアさんなどからプロジェッタツィオーネについて教わり、先月は田代かおるさんが大阪にお越しになり、旅ではあまり触れられなかったエンツォ・マーリさんのプロジェクトについてのお話をお聞きしました。
皆さんはプロジェクトと進め方を知っていますか?
この本は、プロジェクトをするという行為について書かれていますが、マーリさんのプロジェクトはほぼ出てこないですし、割と皆さんが知りたい「実際にどうすればいいか」ということが詳細に書かれているわけではなく、あくまで学生に向けたアドバイスとして少しだけ巻末の方にマーリ流のエクササイズが書かれています。実際にデザインやプロジェクトを具体的に遂行するフレームワークは存在しないですし、デザイン思考によりもし極めてよいアイデアが生まれた場合は、そのアイデアを生んだ人のインスピレーションによるものだと思います。そしてこの本にはプロジェッティスタは倫理観を持って総体として「優れた」かたちを追求するべきだと書かれています。ここで言う総体とは、装飾や単なる美ではなく、知恵や経済、社会、技術(これからの話で言えば地球環境)など総合的なクオリティのことを言っているように読めました。最終章には名前は出ませんでしたがルイス・サリヴァンの極めて有名な言葉への批判ともとれる文章があり、「かたちは機能だけでは導けない」という想いをこの本から感じ取りました。
2001年の本なので計算するとマーリさんが69歳の頃に書かれた本であり、2009年に日本語版が出版されました。その後エンツォ・マーリさんがdesigneastというデザインイベントで来日したのは確か2010年だったと思いますが、当時マーリさんの講演を聴いてもわからないことが多かったですが、上記の8冊の本、そしてイタリアに行き向こうで出会ったプロジェッティスタのお話を聞くと、ようやく少し理解できたように思います。
まるで険しい山を登るかのような本。
さて、この本は「読めないならさっさと下山しろ」と言わんばかりの厳しい言葉や難しい単語がたくさん出てきます。これを翻訳した田代さんも相当すごいのではないかと思います。私はもう少し熟知する為にこの本をあと何度か読まないといけないように思いますが、今の段階で言えることがいくつかあります。
1にも2にもまず調査。
カスティリオーニ、ムナーリ、マーリ、カヴァリア、全てのプロジェッティスタに言えることは、観察や調査の量が圧倒的に多いということ。特に上記の「石造り~」はリサーチの本です。北イタリアの山岳地帯に残された村落の建物や道を観察し、考察することで自然とどう共存して生きてきたかを可視化したものです。「モノからモノが~」や「自由の探究としての~」にも同様に調査することの重要性について説いています。
またその調査も、この本のなかにも書かれていますが三世代くらい前のことを調べなさいとあります。その「昔の知恵を掘り出す」という行為が、物を見る眼差しを変え良いプロジェクトへ導いてくれるのかも知れない。これは多木さんの講演にも出てきますし、カヴァリアさんも同じことを言っていました。つまり昔存在していたものは「本質的である」可能性が高いということであり、この直近40~50年くらいでその上に様々な物が積もったのかも知れません。
自然から学べ。そこには圧倒的に合理的なかたちが存在する。
また自然から学べということも書いています。これも上記に挙げたプロジェッティスタたちが共通して言っていることです。自然は究極の合理性でかたちを決定しています。その究極の合理性はもちろん意味を調べれば誰もが納得していきますが、姿としても美しいと思います。これは不思議な現象です。自然が環境に変化順応する中で生まれたかたちはどこを減らすこともできないですし、どこを足すこともできない。そんな風に思います。
総体として極めてバランスの良い状態。
本の中でユートピアについて書かれていますが、全てのバランスが均等に保たれた状態のことを言っているのだと思いますが、事実それを成り立たせるのは簡単ではないように思います。このユートピアは、ウィリアムモリスのいうユートピアとも限りなく近いようにも個人的に感じますが、今の複雑な社会においてそれを完璧に実行するのはやはり簡単じゃないかも知れません。少しずつやっていく他ないように思います。ただ総体としてバランスを維持し、かたちを生み出すことはできるように思います。それを社会がどう受け止めるのかもきっとプロジェッティスタの仕事なのでしょう。
深い本は市場に残りにくい。
どれも深い内容が書かれていますが、個人的には第四章がかなり興味深い話でした。残念ながらこの本は絶版らしく、ネットで中古を見つけるしかありませんが、ぜひ色んな人に読んでほしい本です。情報をかたちで表すと、放射状に広がるかたちだと思いますが、この本はその主題に対してきわめて中心にあり、本質的かつ難しい内容なので本として商業的に継続が難しいのかも知れません。ですが、こういう本こそ電子書籍化し多くに広めるべきじゃないかと思ったりします。多木さんの「自由の探究としての~」も然り。深い本ほど継続して売られないのは一種のアイロニーがそこにあるようにも思います。書は難しいことの為にあったはずなのですが、これらが失われるということはそうではない物が増えているということなのかも知れません。
この本を読んだ人としっかり議論してみたいなと思います。誰かいたらぜひ。