自由への帰巣

デザインの経験値展に出展していたプロトタイプが返却され、撮影しウェブサイトにアップしました。ぜひご覧ください。

http://kairi-eguchi.com/project/twist

また今回の展示会を経て、また先日行われた「大芸工展」の審査員を経て思うことがあります。今日はそれを書きます。

デザインは発想、そしてその発想したものを表現として仕上げる大きな二つのフェイズが必ず存在します。もっと言えばその前の「対話」という段階と「発表」という段階が存在します。「対話」「発想」「仕上げ」「発表」という四つが実際には存在し、そのコアとなるのが真ん中の二つです。

大芸工展で展示されたものの多くは、課題として行っているため前段の「対話」はほぼなく、自分自身の経験からそれは引き起こされています。ただその内容によっては他者への共感はあるものと思えます。プロの仕事としてより、一人の人としてこうありたいという姿を引き起こすにはそれで十分かも知れません。デザインの経験値展では「対話」というフェイズは存在しました。このあたりはプロらしいイベント構成だなと思います。なんでも良いわけじゃないところが学校の課題とは少し違うところです。

そして「発想」というフェイズに至るわけですが、この「発想」というフェイズは経験に関係なく本人の力量次第だなと思います。使い古されたフレームワークから発想されるものは実は発想ではないのです。それはフレームワークがゆえに閃きより論理を重視するからです。その躓きはとても危険であり、もしいつも同じようなフレームワークで発想していたならば気を付けなければなりません。学生にフレームワークを教えるのもあまりいいとは思えません。デザインの経験値展は経験値の差を客観的に見る展示会であり、一番焦点が当たるのがこの発想力なのではないかと思います。実際に私自身は様々な領域、キャリアの差から色んなことを感じられた展示会でした。学生の発想は自由でしたし、興味深いことにキャリアを積んだ人も変わらず自由でした。これが今日の肝かも知れません。

つまりデザイナーの発想は「自由」からスタートし、経験と共に「自由」に帰巣するのです。

その理由は次のフェイズにあります。「仕上げ」は発想とは対称的に圧倒的な経験値が求められます。コスト計算や具体的にできる仕上げのバリエーション。あともしかすると一般的にデザインと呼ばれている造形力もここに帰属すると私は思います。物を美しく仕上げる力は、発想力とは少し違うからです。それらを含めてデザインではありますが、細かく分ければ仕上げじゃないかと思います。造形というフィールドに発想も含まれていると言われそうですが、それは発想というより感覚なのかなと思います。バランスを整え、造形を施し、表面処理を与える。というのはトレーニングしやすいからです。同じ条件で造形から差を見いだすのは、バリエーション(好み)の違いだけですが、重要なのは同じ条件を違う条件に変える対話や、一見同じ条件に見えてもその中に潜在する決定的な差異を見つけて掘り起こす作業が「対話」と「発想」には含まれるからです。また同時にそれらは思想や哲学に起因していきます。

そうして経験値を積んだデザイナーは条件に縛られつつも自由に発想できるのだと思います。
私はこれを「自由への帰巣」と呼ぶことにします。

大芸工展では出展作が全て学生であったために、仕上がりがいいとは思えないものが確かに多かった気がします。ですがその豊かな「発想力」により未来に残したいと思える尺度の物がいくつかあり、私はそれを推薦することとしました。デザインの経験値展の鴻巣さんの作品もそうです。プロが学生の作品に「仕上げ」だけで物を見るのは大人気ないですし極めて単眼的です。ちゃんとその前後を見る必要がありますし、「仕上げ」のフェイズのトレーニングはおよそ3~5年ほど現場で経験を積めばある程度のレベルに到達してしまいますので、それ以上になると差異はほぼ見えて来ないと思います。また仕上げだけが重要だと学生に伝えてはいけません。あくまで自由を探究しなければデザイナーの責は負えない。

そしてその表現を「発表」するのも、やはり経験が有利に働くと思います。プレゼンに慣れた人ほど、新しいプレゼン技法を取り入れることができるからです。本来プレゼンそのものにフォーマットなど存在せず、相手にどのように魅せて伝えて行くかも発想力なのかも知れませんが、自由への帰巣があればこそそれは優れた発表になります。CGで見せるのも物で見せるのも、相手に体験させるのもどれもプレゼンですが、結果として印象づけたりストーリーが素直に相手に伝わることがプレゼンであり、フォーマットに縛られたものは驚きという領域には到達できない。ですので、基本を学んだ後はそこから離れて自由へ舞い戻る必要があると思います。

デザインの経験値展はその展示会の特性上、発表という枠は統一されることがあらかじめ決まっていましたのでそこでの差異は出せません。あくまで「対話」「発想」が中心で「仕上げ」というフィールドでも少し硬めの制約がありましたが、大芸工展はパネルサイズは決まっていたもののモックアップの有無は自由、ボードのフォーマットも無い中で、最後にグランプリを勝ち得た「水の器」はプレゼンの勝利だった気がします。それも大いにデザインでした。若さゆえの自由さなのかわかりませんが、それが印象的だったのは事実ですし、教育が自由を奪う物ではいけないと本来思います。ただ、ある程度は線路を走ってもらわないと経験も積まれていかないのも事実です。

ですが、その経験を積むという行為が未来における「自由への帰巣」を行うためのものだとするならば、私はその失敗や経験を積むことが大きな価値なのではないかと思います。人は本質的に自由です。それゆえに道を進むのは覚悟が必要です。

経験値展のキャリアが長い方の作ったものの多くが、自由へ帰巣している姿を見るにあたり、彼らの下積みの濃密さを話さずとも感じたこと、ここに綴っておきます。

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